2013年8月16日金曜日

その3 日本人のルーツはインドネシア人だった

『インドネシアは日本と世界をつなぐ"架け橋"だった』


『インドネシアは日本と世界をつなぐ"架け橋"だった』というタイトルで連載をお送りしていますが・・・。

今回は、"架け橋"をさらに飛び越えて。。。

『邪馬台国はインドネシアのジャワ島にあった』
『縄文時代の日本にはインドネシア人が移り住んでいた』
『もちろん卑弥呼もインドネシア人だった』
というセンセーショナルなお話をします。


(一)邪馬台国はインドネシアのジャワ島にあった

日本について書かれた最も古い書物は『魏志倭人伝』です。
古事記や日本書紀よりもさらに古いです。
紀元前3世紀の弥生時代に書かれたと思われます。

この『魏志倭人伝』には、「邪馬台国があって、そこに卑弥呼という女王がいて、日本を統治していた!」と、書かれています。

で。。。

「邪馬台国はどこにあったのか?」というのが、日本の歴史で最大の謎となっています。

『九州にあった!』 『沖縄にあった!』 『近畿にあった!』と,いろいろな説があります。

東洋史学者の内田吟風教授などは、「邪馬台国はインドネシアのジャワ島にあった!」と説を提唱しています。

魏志倭人伝の卑弥呼に関する記述 (書・矢田麻美)

『魏志倭人伝』には、邪馬台国の位置がごちゃごちゃと記されています。
要約すると、「南に向かって船で一ヶ月以上、さらに徒歩で一ヶ月の処に邪馬台国があって、帯方郡(韓国ソウル付近)から邪馬台国までの距離は、一万二千里(約5,000km)余りです。」と書かれています。

『魏志倭人伝』の記述の通りですと、邪馬台国は日本国内ではなくて、スマトラ島やジャワ島など、インドネシアあたりのどこかの南の島にあったということになります。
ちなみにソウルからインドネシアまでの距離は、ちょうど約5000kmです。

また、「倭地温暖、冬夏食生菜」と記されているので、邪馬台国は、一年中暖かい気候で、常に生野菜を食べていたことが分かります。
このことからも、邪馬台国は日本ではなく、温暖な南方にあったことがうかがえます。


さらに、邪馬台国=ジャバ大国と読めます。
語源は、インドの神様のシバで、それがジャバとなり、今日では、ジャワになりました。

余談ですが、アンドロイド携帯のアプリはすべてジャバというプログラムで動いています。
このジャバもインドネシアのジャワ島が起源です。

ただ、今のような国という形ができあがるのは5世紀以降です。
3世紀頃に存在した邪馬台国の本部は、ジャワにあって、邪馬台国の衛星国が、沖縄か南九州にあって、そこにジャワからカリスマ女性の卑弥呼がやってきて、日本を統治したと考えるのが現実的です。

で。。。

『魏志倭人伝』には「男子皆黥面文身」=「当時の日本人は、大人も子供も、顔や体に刺青を入れていた」と書かれています。土偶の発掘調査からも、 縄文・弥生時代の日本は世界でも有数の刺青文化を有していたことが知られています。

入れ墨状の文様を持った縄文時代の土偶

刺青は、もともとインドネシアの海洋民族が素潜りで漁をする時に、サメやウミヘビに襲われないように入れていました。
決してファッションや脅しではなく、安全な暮らしの為の工夫であり、生活の知恵でした。
伝統的なタトゥーとして世界で一番有名なのが、ボルネオ(カリマンタン)に住むダヤック族の刺青です。


胸に掘られているのがボルネオ・フラワーといって、タトゥーのデザインでは、定番中の定番です。
ナスの花をモチーフにしています。
日本のコトワザでも「親の意見とナスの花は千に一つも無駄はない」といわれるほど、ナスの花は、神秘的な生命力と繁殖力を秘めています。

また、腕や足には、サソリや龍の刺青を入れていました。
縄をモチーフにした刺青も今日でも多くみられますが、このデザインを土器に施したのものが、縄文式土器だとも考えられます。

そして、『魏志倭人伝』には、「朱丹(赤い染料)を身体に塗っていた」と,記されています。


これはヘナという植物の染料で顔や手足に模様を描く東南アジアに古代から伝わる風習で、今日でも,結婚式では、花嫁がヘナのタトゥーを施します。
また、天然植物のヘナで髪を染めると、髪を痛めずに、色落ちもしないので、現在の日本では、白髪染めとしても人気があります。



(二)縄文時代の日本にはインドネシア人が住んでいた

『浦和一号』のお話をします。
 
ちなみに、『浦和一号』は、南極一号の類似品でも、埼玉のゆるキャラでも、レッズのマスコット人形でもありません。

1988年に埼玉県浦和市で発見された、約5900年前(縄文時代前期)の人骨の名前です。

この『浦和一号』の頭蓋骨から、ミトコンドリアを取り出して、DNA鑑定をしてみると。。。

現代の日本人は、『浦和一号』のDNAと、とても近い配列なのですが、完全には一致しませんでした。

アフリカ人や欧米人は、まったく異なりました。

そして、アジア人を調べてみると、現在のインドネシア人とマレーシア人のDNA配列が、『浦和一号』のDNA配列と、ピッタリと一致しました。


また、日本の縄文人と今日のインドネシア人は、歯や骨の形も、ほぼ一緒だということが分かっています。

このことから、縄文時代には,日本の関東にまで、マレー・インドネシア人がやってきて、移り住んでいたことが分かります。

また、現代の日本人が、『浦和一号』のDNAとやや違うのは、縄文時代以降に、弥生渡来人といわれる北方からの民族が日本にやってきて、混血化が進み、今日のような雑多な日本民族が形成されていったと考えられています。

この『浦和一号』という縄文人は、日本人のインドネシア起源説を証明したといって過言ではありません。
日本人のルーツは、インドネシア人だったのです。

ただ。。。

中韓が大好きな左翼リベラルのマスコミや学会の先生はもちろんですが、
保守といわれる人達も、日本人のルーツがインドネシア人であることを、認めたがりません。

何故なのでしょうね。



(三)もちろん卑弥呼はインドネシア人だった

今から、約7万年前は、氷河期の最後で、海面が下がっていたので、現在は一万五千以上あるインドネシアの島々は、ひと続きとなって、『スンダランド』と呼ばれる大きなひとつの陸地でした。

緑の部分が大陸棚で、七万年前は陸地でした。

インドから、ミャンマーやタイを通って、ジャワやバリにも陸続きで行くことができました。
この時期に、アフリカから、中東やインドを経由して、多くの新人類(ホモ・サピエンス)が、インドネシアにやってきました。

その後、海水面が上昇して、東南アジアは、今と同じような島々に分かれました。
大陸が島々に変わると、海に潜って、魚やアワビを獲って暮らす人々が徐々に増えていきました。
インドネシアの海洋民族の誕生です。

インドネシアという名前ですが、「インド」に、ギリシア語で「島々」を表す「ネシア」をつけたもので、「インドの島々」という意味です。

インドネシアの海洋民族は、丸木舟やイカダ舟で黒潮に乗って北上し、アジア各地に移住・拡散していきました。
そして、琉球列島にまで到達した人々が、日本列島をさらに北上し、日本の縄文人になったと考えられています。

もちろん。。。

『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国の女王・卑弥呼もインドネシアの海洋民族の出身です。

卑弥呼は、北方の中国や韓国から渡来したと唱える学者は少なくありませんが、当時の航海術から考えて、遙か南方にある邪馬台国に、黒潮に逆らって北方から女王がやって来られる可能性は、ゼロに近いです。

ところで。。。

『魏志倭人伝』によりますと、卑弥呼はきわめて宗教的な存在でした。
今日でいいますと、沖縄の女司祭である『ノロ』のような存在だったと考えられています。

沖縄のノロ 岩波書店「沖縄文化の遺宝」より 1935年

特殊な才能をもった霊能者で、神々と交信することができ、神と人間の仲介役でした。
そして、国や人々の運勢や吉兆を占ったり、災厄を払ったり、病気の人を治したりすることが出来ました。


神様の意志を敏感に感じ取ることができるのは、男性よりも、むしろ感受性の強い女性です。

卑弥呼の死後、卑弥呼の代わりに男性の国王が位に就くと、国民の信用を失い、国が大いに乱れた、と『魏志倭人伝』には書かれています。
男性では、神々との交信が出来ず、当時の国王としての役割を果たすことができなかったようです。


卑弥呼には、沖縄のノロのように、しばしば、その身に神が取り憑いて、卑弥呼自身が神そのものになったようです。

なので。。。

卑弥呼は天照大神(アマテレスオオミカミ)だったとする説が、とても多くあります。
卑弥呼も、天照大神も、信仰の対象で、弟が一人いて、生涯独身だったという共通点があります。

『魏志倭人伝』には卑弥呼の装束に関する記述はありませんが、ノロの装束や世界の各地のアニミズムから想像すると、神が憑依しやすいように、白装束に冠をして、勾玉の装身具を着けていたと、考えられます。

また、『魏志倭人伝』には、卑弥呼が『三種の神器』のひとつである銅鏡をもっていたことも記されています。


卑弥呼は、軍事力よりも、その神秘的な能力で、人々の畏怖と尊敬を集め、日本を統治したカリスマでした。
同時に、卑弥呼を輩出したインドネシア系の海洋民族は、メソポタミア(現在のイラン・イラク付近)の出身で、鉄の精錬など、高度な技術と文化をもっていました。
特に、稲作と航海術と武器製造の技術は、当時の日本を治め、繁栄させる上で、大いに役立ちました。


卑弥呼の時代には、丸木船ではなく、全長30m、幅3m、漕ぎ手40人、時速3ノット(6km/時)くらいの大きな船になっていたので、南方からより多くのインドネシア人がやってきて、日本に移り住んだと思われます。



今回は、邪馬台国はインドネシアのジャワ島にあって、日本人のルーツはインドネシア人で、もちろん卑弥呼もインドネシア人だったというお話をしました。

ゴーギャンが描いた 『 われわれはどこから来たのか われわれは何者なのか われわれはどこへ行くのか 』 とい うタイトルの有名な絵があります。
『日本人はどこから来たのか』と『日本人は何者なのか』が分かれば、これから『日本人は誰とどこに行くのか』がおのずと見えてくると思います。

今回もご拝読頂きまして、ありがとうございました。(深くペコリ)




1 件のコメント:

  1. 興味深い話ですね。もっと詳しく知りたいので、同テーマの市販書籍などありましたらご紹介いただけないでしょうか。
    私がこちらのサイトを見つけたのは、同様の仮説を立てたからです。知人にインドネシア人、マレーシア人に似た純粋な日本人を何人も知っているのと、昔ザ・ピーナッツの歌っていた「モスラの歌」が日本人の考えたデタラメな言葉ではなく、れっきとしたインドネシア語だと知らされたことに大変驚きました。地理的に近い韓国語や中国語よりもはるかに日本語の響きに似ています。アルファベット表記も日本語に似ていますし。

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